アロゼの休憩室30「温室から踏み出す」

ケンジさんの登場によって、サラちゃんを取り巻く環境が少しずつ変わっていきます。
パートナーであるルセット先生にも内緒の世界が広がっていきます。
知らず知らずのうちに、ルセット先生とその周りの人々という温室から一歩踏み出し始めたサラちゃん。
いつの間にか自分にそんな力が付いていることに、サラちゃんはまだ気付いていません。
サラちゃんはいつか気付くでしょう。
ルセット先生とその周りの人々という温室から踏み出せるのは、
ルセット先生とその周りの人々にしっかりと守られているからだと。
そのことに気付けるようになるまでには少し時間が掛かるかもしれません。
当然、一番近くの存在であるルセット先生との衝突も起こるでしょう。

サラちゃんの大学院生活は、あと2か月ほどで1年次修了となりますが、
『銀菓神使(ぎんがしんし)アロゼ ~アロゼ誕生前の物語~ サラの日記』の連載は、サラちゃんが2年生に進級後も続きます。
どうぞお楽しみに(*^_^*)!

サラの日記300(何かの副作用っぽい気がするんだけど……)

銀菓神暦2016年1月31日

研究室はお休み。
明日から期末試験。
でも、昨日の夕方頃から頭痛。
ただ起きているだけでも辛くて、今日はほとんど勉強はできませんでした。

今朝、顔を合わせた時にジャックさんが私の様子に気付いてくれて、
ストックしてあったハーブの中から私に合いそうなものを適当に調合して、ハーブティーを淹れてくれました。

「……でもさ、サラちゃん。それ、普通の体調不良じゃないんじゃない? 何かの副作用っぽい気がするんだけど……」
ジャックさんは私の顔を見ては首をひねり、また顔を見ては首をひねり……。
「えーっ? 私、変なもの食べたりしてないはずだけど……」
「そうだよねぇ……。俺の思い違いかなぁ……」

ジャックさんと2人でごちゃごちゃ話していたら、それに気付いたルセット先生も話に入って来られました。
で、銀菓宝果の飲み物も飲まされたんだけど、頭痛は治まらなくて……。

明日は元気になっていますように。

サラの日記299(会う必要のある時には会えるような気がしているからです。)

銀菓神暦2016年1月30日

今日はケンジさんには会えませんでした。
会おうとすることもしませんでした。
ケンジさんには、会う必要のある時には会えるような気がしているからです。
ルセット先生とパートナーになってから、いつでも意識体で交信できることが当たり前になってしまって、こういう感覚を忘れかけていました。
もちろん、自分から飛び込んで行かなければ何も起こらないこともあるけれど、
そういうのとは別の、本能的な感覚です。

ルセット先生の意識体からは、相変わらずひどい疲労感が伝わって来ます。
癒しのアロゼの効果がどのぐらいあるのか、1度掛けるのを止めてみれば分かるのだろうけど、止めるのが怖くて止められません。止めてしまって、もしも思っている以上に癒しのアロゼへの依存が強かった場合のことを考えると、怖くて止められません。
ルセット先生が闘っている何かが終わって、大丈夫だということが確かになるまでは、止めるわけにはいかない。

私の体力は続くでしょうか……。
ケンジさんはあと1か月もすれば研究室を修了してしまう。
頼れなくなる。
その前に、私は自分の力でなんとかする術(すべ)を見付けられるでしょうか。

期末試験の勉強をしなければならないのに、
こんな時に限ってほかのことが気になってしまう……。

サラの日記298(パートナーでもなんでもないケンジさんとは、 口から出る言葉を通して、その場で見える表情を通して伝え合うものが全て。)

銀菓神暦2016年1月29日

空き時間、ケンジさんが作ってくださったノートを持ち込んで、図書館で試験勉強をしていました。
ケンジさんのノート、本当はもっとじっくり読みたいのに、ルセット先生と一緒の時に見るわけにはいきません。
だから、ルセット先生が勤務時間中の図書館がチャンスなんです。

1時間ほどして、
「お隣り、よろしいですか?」
と静かに声を掛けてこられた人がいました。
ケンジさんでした。
図書館なので当たり前と言えば当たり前なのですが、何をおしゃべりするわけでもなく、2人とも、ただただ試験勉強に取り組んでいました。
勉強している時のケンジさんは料理をしている時のケンジさんとは雰囲気が変わるんだな……と思いながら、時々こっそり横顔を見ていたこと以外は、真剣に試験勉強に取り組んでいました。

「じゃあ、私、時間なので……」
テキストやノートを片付けながら小さな声でそう言うと、ケンジさんは にっこりしてうなずかれました。

ただそれだけです。
ただそれだけなのに、そのあとのルセット先生の講義中、
ルセット先生と視線が合いそうになる度に、どきどきしたのは なんでだろう。
必死にブロックしているつもりの私の意識体を、ルセット先生はどこまで読めているんだろう。

ケンジさんとは、次の約束をしませんでした。
ケンジさんには、次はいつ会えるんだろう。

パートナーでもなんでもないケンジさんとは、
口から出る言葉を通して、その場で見える表情を通して伝え合うものが全て。

サラの日記297(「だめだよ、サラ。それはだめだ。その手には乗らない」)

銀菓神暦2016年1月28日

昨日、ケンジさんと話しているうちに今度の期末試験の話になって、
なんと、ケンジさんがモンテ先生の科目の対策ノートを作ってきてくださることになりました!
モンテ先生は主に2年生の担当をされていらっしゃるので、講義の時以外はめったにお会いすることは無いし、どんな感じの試験をされる先生なのか分からなくて不安だったので、これはもう、とってもラッキーな気分です。

ということは、やっぱり問題はルセット先生の『銀菓薬膳』かぁ……。
でも、ジャックさんはゾエさんとのことも抱えて大変そうだしなぁ……。
自力で頑張るしかないのかなぁ……。

というわけで、ちょこっとだけ作戦を決行。
ルセット先生の研究室に『銀菓薬膳』のテキストとノートを持ち込んで、
一生懸命読んでるふりをして(あ、ふりじゃなくて、本当にちゃんと読んでるんだけど)、
「うーん……。うーん……」
と頭を抱えてみる。

「だめだよ、サラ。それはだめだ。その手には乗らない」
ルセット先生はそう言って、私のおでこを指ではじいて笑う。
「痛っ!」
私はわざと大げさにほっぺたを膨らませて、怒った顔を作ってみる。
「だったら、その科目はメランジェ先生のところででも勉強してくれ」
ルセット先生は膨らんだ私のほっぺたを軽く突きながら また笑う。
「うーん……、けち!」
私はわざとぷんぷんしてルセット先生の研究室を出る。

出たところに……、ケンジさん?

「はい、これ。ついでにこれも」
ケンジさんはモンテ先生の科目の対策ノートと、
『銀菓薬膳』の対策ノートも作ってくださっていました。

『銀菓薬膳』の対策ノートには、ミエット目線でのアイデアが色々……。
ジャックさんに教えてもらうのとはちょっと違っていて面白い。

サラの日記296(「もしもサラさんの想いが叶わないようなことがあったら、僕が代役を買って出るつもりでした。もちろん今でもそうですよ」)

銀菓神暦2016年1月27日

植物館に立ち寄ったら、偶然ケンジさんに会いました。
この間、図書館で声を掛けられるまでは、私はケンジさんのことを、ちゃんとケンジさんだと思って見たことはなかったのだけど、
ケンジさんは植物館や中庭に居た私のことを、ちゃんと私だと思って見てくださっていたってことを知りました。

「無理もないですよ。僕はこの通り存在感ゼロの男ですけど、サラさんは僕の目に留まってしまうタイプの人でしたから。以前から色んなものをこぼしていらっしゃったのでね」
ケンジさんはそう言いながら笑いをこらえていらっしゃる様子でしたが、数秒後にお腹を抱えて笑い出されました。
「あの……、そんなに? 私、何をこぼしてましたか?」
「んー。えーっと。……ある人が中庭のベンチに座っていたんです。見ているこっちの方が切なくなってしまいそうなぐらいの愛情を、そこらじゅうに こぼしまくっている1年生が。まだ銀菓神使の力の使い方を知らないようでしたし、拾い集めて再利用なんてものでもありませんしね。そのまま見ているしかなかったんですが、そのうち気が付いたんです。彼女が中庭のベンチから見ている視線の先には、いつもルセット先生がいらっしゃる」
「その彼女って……、私……ですよね?」
ケンジさんは にっこりしてうなずかれました。
「他にも色々こぼしていらっしゃいまいした。不安や……迷い……。でも、そういうのはミエットの力では何もして差し上げられないんです。見えてはしまうんですけどね……。やっと、お手伝いできることが見付かって……。見えてしまうのに何もして差し上げられないのは、もやもやして苦しいものですよ」

そのあともケンジさんの話は続きました。
ちょっと立ち寄るだけのつもりだった植物館で、気が付いたら1時間以上話し込んでいました。
話の最後に、ケンジさんは少し冗談めかして言われました。
「もしもサラさんの想いが叶わないようなことがあったら、僕が代役を買って出るつもりでした。もちろん今でもそうですよ」

サラの日記295(昨日のできごとで安心して、今日はケンジさんを捜さなくても平気でした。)

銀菓神暦2016年1月26日

ケンジさんの料理姿ばかり思い出してしまいます。
もちろん、ルセット先生には読まれないようにロックは掛けています。
でも、なんでもない雰囲気の時に笑みがこぼれてしまうのをごまかすのが大変です。
意識体にはロックを掛けられても、表情には出てしまいます。

なんか、昨日のできごとで安心して、今日はケンジさんを捜さなくても平気でした。
昨日断ってしまった分を、ルセット先生と一緒に研究室で過ごしました。

「何かいいことあったの?」
ルセット先生も私につられたみたいに、にこにこしながら尋ねられました。
「ううん。いつもと一緒」
「そう? ……まあいいや。元気になったみたいだから」
ルセット先生は一瞬何かを感じたような表情をされましたが、すぐに にっこりしてくださいました。

不思議です。
以前、ゾエさんがジャックさんに施した力を感じ取ったルセット先生が、銀菓神使ミエットの力に気付かないなんて。
もしかしたら、気付いていて黙ってくださっているのでしょうか。
それとも、人知れず様々なものを再利用できてしまうのがミエットの力?
私は、ケンジさんのことをルセット先生に秘密にしたままの気分でいてもいいのでしょうか。
打ち明けるべき?
でも、打ち明けてしまったら、あの日からルセット先生に掛け続けている癒しのアロゼのことも ばれてしまう。

そうだった……。
私がルセット先生にケンジさんのことを話さないのは、
ルセット先生に気付かれないよう癒しのアロゼを掛け続けるため。
ケンジさんに対して、ルセット先生に話せないような何かがあるからではない。

でも、また機会があれば、ケンジさんが昨日とは別の料理を作るところも見てみたい。

サラの日記294(ケンジさんが促してくださるままに、2年生の居る棟の中へ入りました。)

銀菓神暦2016年1月25日

大寒波の影響が少し残ってはいますが、いつも通りの週の初めでした。
2年生の居る棟の方が気になって気になって、どうしてもそちらの方ばかりを見てしまうこと以外は……。

ルセット先生に嘘をつきました。
お昼は研究室で一緒に食べようと誘われたのに、お昼休みの間に済ませたいことがあるからと言って断りました。
嘘……でもないのかもしれません。
お昼休みの間にしたいことは本当にあったから。

お昼休みは2年生の居る棟が見えるベンチに居ました。
風が冷たくて、寒くて、手の感覚が無くなりそうだったけれど、ケンジさんを見付けることができるかもしれないと思って、ベンチに居ました。
後ろからマントを掛けてくださる人がいました。
寒さで硬くなってしまった身体をゆっくり動かして振り返ると、ケンジさんでした。
「こんな寒い所で何をされてるんですか? 中に入りませんか?」
ケンジさんが促してくださるままに、2年生の居る棟の中へ入りました。

「お昼ご飯は? もう済まされましたか?」
ケンジさんが、私を案内するかのように半歩先を歩きながら尋ねられました。
私が首を横に振ると、ケンジさんは、
「じゃあ、一緒にいかがですか? 今、食堂の裏で材料の残り物を頂いてきたんです。これから作るので、一緒にいかがですか?」
と誘ってくださいました。

ケンジさんが作る料理は不思議でした。
食堂では廃棄されるはずだった食材の切れ端や揚げ物のカスなどが、ちょっとしたコース料理になってしまうんです。
ケンジさんが料理する姿を見ながら新鮮な驚きに包まれていると、ケンジさんは、
「こういうのもミエットの本業ですから……。時々食堂の裏で分けてもらうんですよ、練習用の材料として。食費も浮きますしね」
と、笑われました。

サラの日記293(ミカンの木は、気温がマイナス5℃を下回るとだめになってしまうことがあるんです。)

銀菓神暦2016年1月24日

研究室はお休み。

昨夜遅くから大寒波が花綵(はなづな)アグルム国を襲っていますが、
1週間ほど前から少しずつ進めていた対策のお蔭で、ミカンの木への被害は最小限に抑えられました。
ミカンの木は、気温がマイナス5℃を下回るとだめになってしまうことがあるんです。
木が凍って、葉っぱが落ちてしまうんです。
葉っぱが落ちると光合成ができなくなり、栄養が回らなくなり、枯れてしまいます。
数十年前の大寒波では多くのミカンの木が枯れてしまったそうです。
今回はなんとか乗り切れればいいのですが……。
プラクミーヌの領地になっているミカン畑の方へは、私たちでは対策できなかったので心配ですが、
多分ゾエさんがうまくやってくださっているはずです。ジャックさんとは頻繁に連絡を取り合っているようだし。

明日はケンジさんには会わない方がいいのかな?
ケンジさん、『2、3日大丈夫なようにしておきますよ』って言われていました。
ってことは、2、3日は会わない方がいいってこと?
私、どうすればいいんだろう……。
というか、私、どうしてこんなこと心配しなくちゃならないんだろう……。

サラの日記292(ご都合が良ければ図書館の裏へ。)

銀菓神暦2016年1月23日

出なければならない講義は午前中だけでした。
午後からは……
図書館に居ました。
図書館に居れば、この前みたいにケンジさんに会えるかもしれないと思って。
それに、モンテ研究室の辺りを うろうろしているよりも言い訳できる。
図書館で試験勉強していた……って。

――言い訳? 言い訳って必要?――
私はただ、漏れてしまっている力の再利用のことでケンジさんにお世話になっているだけ。
ケンジさんが銀菓神使ミエットで、そういう術を使える人だから。
ルセット先生の意識体に癒しのアロゼを掛け続けながら、他のことにも力が使えるように、銀菓神使ミエットの力で助けてもらっているだけ。

――うん。やっぱり言い訳は必要――
第三者の勘繰り(かんぐり)があっては困る。
ケンジさんとのことで妙な噂が立つのは困る。
そういうんじゃないんだから。

誰かが、机の上に紙切れを落としながら通り過ぎて行きました。
『力の漏れが目立ち始めています。ご都合が良ければ図書館の裏へ。ミエット』

冷静さを装って、なんでもない表情を作って、図書館の裏に行ってみました。
別にそんなことしなくても私は冷静だし、なんでもないのだけれど……。

ケンジさんが にっこりしながら おじぎをして、
「明日はお休みですよね? 2、3日大丈夫なようにしておきますよ」
と迎えてくださいました。

サラの日記291(空き時間にモンテ研究室の近くを うろうろしていました。)

銀菓神暦2016年1月22日

空き時間にモンテ研究室の近くを うろうろしていました。
ケンジさんに、昨日あれからの力の漏れ具合を見てもらいたいと思ったからです。
モンテ研究室のドアが開く度にケンジさんが出て来られないかと覗きましたが、私が居る間には出て来られませんでした。

メランジェ研究室に戻る途中でジャックさんに会いました。
「あれ? サラちゃんがそっち側から来るのってめずらしいね」
ジャックさんは何気無しに言った様子でしたが、私はケンジさんのことがばれないかと どきどきしました。
「ん、ちょっとお散歩してたの」
「へぇー。ね、何か面白いもんあった?」
「えーっと……。ううん。2年生の研究室があっただけ」
「ふーん」
ジャックさんがつまらなそうな顔をしたところで、メランジェ研究室に着きました。

メランジェ先生が私を見る視線が、いつもより注意深いような気がしました。
――ケンジさんのことが ばれませんように――
思わずそう願いました。
「サラさん」
メランジェ先生が何かを言われます。ケンジさんのことではないことを祈りました。
「今日は顔色がいいですね。この間までお疲れのようだったので心配していたんですよ」
「あ、はい。少しゆっくりできたので……」

アロゼの休憩室29「大きな音で」

手にして2か月ほどになる横笛ですが、そろそろ録音もしてみたいな~って感じになってきました。
先日、初めて手にしたICレコーダーを使って、試しに自宅で録音してみたのですが、
20年ほど前にやっていたMDでの録音とはぜーんぜん違うなーって感動しました。
素人の記録用ならこれで充分っていう録音がボタンひとつでできちゃう。

以前の記事に書いたように、自宅ではppでしか音を出せないので、
録音に使えそうな場所探しを始めました。
「今日だけごめんなさい」と思いながら自宅でっていう手もあるんですが、
折角録音するんだったら、やっぱり気兼ねなしに大きな音で吹きたいな。

取り敢えず手始めに1曲だけって考えていたのですが、
もしもどこか場所を借りるんだったら、
折角なので、ついでに2,3曲録音しておきたいな……なんて考えも浮かんで来たり……。
そうなると、ついでの分の2,3曲の練習を新たに始めなくちゃならなくなるし……。

色々と思案中の今日この頃です。

サラの日記290(「ルセット先生にお話しできないほどのことを、私が、いいんですか?」)

銀菓神暦2016年1月21日

モンテ先生の研究室の隣りの教室で、ケンジさんと待ち合わせをしていました。
昨日ケンジさんから漏れている力の再利用の話を聞いた時、すぐにでもお願いしたい心境だったのだけど、ケンジさんは1晩待った方がいいと時間をくださいました。王太子の婚約者が、そんなに簡単に見ず知らずの人間と関わらない方がいいと。
自分から声を掛けておいて、変わった人。
でも、私の立場を よく考えてくださる優しい方です。

「ルセット先生にはご相談されましたか?」
教室に入って来られたケンジさんは、緊張で硬くなった笑顔でした。
ケンジさんの質問に、私は首を横に振りました。
「ご相談されなくていいんですか?」
ケンジさんが不安そうな表情をされました。
「……訳があって、このことは話せないんです」
私はそう答えて目線を下に落としました。
数分間の沈黙が続きました。

「ルセット先生にお話しできないほどのことを、私が、いいんですか?」
ケンジさんの声からは緊張感は抜け、真剣な穏やかさに変わっていました。
「お願いします……」
私は目線を下に落としたまま、ケンジさんに頭を下げました。
「ルセット先生は本当にお幸せな方ですね。なんとなく分かりますよ。ルセット先生にお話しできない訳が」
そのケンジさんの言葉に顔を上げると、ケンジさんは にっこり笑ってくださっていました。

ケンジさんはミエットの銀菓神使スーツを着装して、私に術を掛け始められました。
私の周りの空気の中に小さな結晶が見え始め、その結晶同士がくっつき合って さらに大きな結晶になり、
やがて、直径10cmほどの ひとつの塊になりました。
ケンジさん、いえ、銀菓神使ミエットさんは、その塊をそっと両手ですくうと、私の胸の方へ向かって、ゆっくり そーっと投げられました。
その塊が私の中に入っていくと、この間から感じていた慢性的な疲労感がすーっと消えていくのを感じました。

「ありがとうございます。お礼はどうすればいいですか?」
「そういうのはいいんです。僕が気になって声を掛けさせていただいたんですから」
「でも……」
「じゃあ、これからもサラさんの力にならせてください」
「はい! ありがとうございます」

サラの日記289(「モンテ研究室のケンジです。銀菓神使ミエット」)

銀菓神暦2016年1月20日

図書館で勉強していたら、視界の隅の方で気になる人影が……。
こちらを ちらちら見てる。
私のこと興味半分で見てる人かな? って思って、特に気にしないようにしていました。
なんだか居心地が悪くて、やっぱりメランジェ先生の研究室に行こうかなって立ち上がった瞬間、その人影がすごい速さで近付いて来ました。
びっくりして固まっていたら、その人が話し掛けて来られました。
「サラさん、ですよね?」
「え? あ、はい……」
ひょろっとして色白で、物腰の柔らかい人。
どこかで見たことのある人だなぁって、一生懸命思い出そうとしていたら、
「モンテ研究室のケンジです。銀菓神使ミエット」
と、にっこりしてくださいました。
「あ! ミカンの作業の時の!」
「ありがとう。覚えててくれたんですね。それで……あの、大変言いにくいんですけど……」
ケンジさんは私の方を見たり目をそらしたりしていらっしゃいましたが、意を決したように棒読み状態でこう言われました。
「漏れてるのが見えるんです!」

「ん? 漏れてる?」
何が漏れてるんだろうと首をかしげていたら、ケンジさんは、
「力が……漏れています」
と言いながら、私の周りの空気をつかみ始めました。
ケンジさんの話は続きます。
「力、遠隔で使ってますよね? 目的地まで飛び切れなかった力が、サラさんの周りにたくさん漏れてるんです。これ、集めると 再利用できますよ、ミエットの力でなら。すみません……。王太子殿下のご婚約者でいらしゃる方に偉そうなことを」

ケンジさんの話を聞きながら、私の頭の中は高速回転していました。
――力が漏れてる? 再利用? ……2つ同時に術を使えるだけの力になるかもしれない――
次の瞬間、私はケンジさんに頭を下げていました。
「お願いします、再利用。私を助けてください。お願いします」

サラの日記288(お菓子の作業でできた傷じゃない。)

銀菓神暦2016年1月19日

夕方になって気が付きました。
ルセット先生の右手の甲に、深いひっかき傷ができていました。
お菓子を作る作業中に軽く火傷(やけど)を負う(おう)っていうのならよくあることだけど、
ルセット先生ほどの上級菓子職人が手の甲に深いひっかき傷を作るなんて、お菓子の作業でできた傷じゃない。

「これ、どうしたの? 大丈夫?」
って聞いてみたけど、
「地面が凍っているのに気付かなくて転んだんだ」
って、笑ってはぐらかされました。
「手当ては?」
「大丈夫だよ」
ルセット先生は そう言って右手を後ろに隠されましたが、私は無理矢理ルセット先生の手をつかんで、癒しのアロゼを掛けました。
昨日からルセット先生の意識体に掛け続けているものとは別に。

いつの間にかベッドの上でした。
私が起き上がった気配に気付いたルセット先生が机から離れて、私のそばに来てくださいました。

「大丈夫?」
ルセット先生が私の顔に両手を当てて覗き込まれました。
「うん。……私、どうなったの?」
「僕の傷に癒しのアロゼを掛けてくれて……倒れた。多分、力の使い過ぎだよ。他に何かに使った?」
「う……、ううん。ミシェルの傷に使っただけ」
「じゃ、疲れてるだけかな? 今日はもうお休み」
ルセット先生は机の作業に戻られました。

――まだ だめなんだ。私の力じゃ まだ、2つ同時に術を使うことはできない――

サラの日記287(ルセット先生は、カリンさんに起きている何かから、カリンさんを守ろうと動いている。)

銀菓神暦2016年1月18日

ルセット先生の研究室にあった謎のノート。
ルセット先生が見せてくれた あの景色。
私の中にあるルセット先生の半分の意識体が感じていること。

ぼんやり繋がりました。
ルセット先生は、カリンさんに起きている何かから、カリンさんを守ろうと動いている。
カリンさんの波動は あんなにも透明なのに、何が起きているんだろう……。

今日はメランジェ先生の研究室で過ごしていました。
ルセット先生が昨日見せてくださったことが、多分、今のルセット先生が私に伝えられる精一杯のこと。
私が今できることは……、
期末試験を頑張って、無事に進級すること。
私が落第すると、ルセット先生が笑われちゃう。
あんなのをパートナーにしたのかって。

だけど、やっぱりちょっと心配。
ルセット先生の波動には、強い疲労感が混ざってる。

癒しのアロゼを、
ルセット先生の意識体に掛ける。
ルセット先生には気付かれないように そっと。
私の今の力では、癒しのアロゼはルセット先生の闇に吸い込まれていくだけ。
こんなのじゃ、なんの役にも立たないのかもしれない。
だけど、力の続く限りずっと、私は掛け続ける。
私にできることを通して、ずっとルセット先生のそばに居たいから。

サラの日記286(守りたいんだ。カリンを。)

銀菓神暦2016年1月17日

研究室はお休み。
朝、ルセット先生と2人で実家の菓子工房に手伝いに行って帰って来たら、
ジャックさんはゾエさんのところへ出掛けたあとでした。

「僕らもどこかに行こうか」
ルセット先生が にっこりしながら誘ってくださいました。
「いいの? ポンカンの収穫、手伝いに行った方がいいんじゃない?」
「いつも行ってるんだ。今日ぐらい暇をもらっても大丈夫だよ。それに、今日はサラと2人だけがいい」
ルセット先生はそう言うと、私の手を取られました。
――あれっ? 菓子職人の手じゃない――
一瞬そう思いました。
ルセット先生は、手の質感が変わってしまうほどの何かをしているの?
<今日は何も聞かないで>
ルセット先生から そんなメッセージが流れて来るのと同時に、
私の唇はルセット先生の唇でふさがれました。

屋上の鳥居を抜けて、着いたところは どこかの橋の上でした。
見下ろすと、水の流れのところどころに小さな渦ができています。
目線を遠くに移すと、小さな島が いくつか見えます。
ルセット先生は橋の欄干に手を付いて、黙って遠くを見続けていました。
ルセット先生は何も言われなかったけれど、遠くに見える島の1つがカリンさんの居る島だということは すぐに分かりました。
カリンさんの、透明で優しい波動が、私の中のルセット先生の意識体に、避けようもなく伝わって来るから。

ルセット先生は私に、
今、何をどう感じているのか、
その全てを見せてくれている。

<守りたいんだ。カリンを。このまま、透明なままでいて欲しい>

ルセット先生の表情を確かめようとしたけど、
ルセット先生は いつの間にか銀菓神使スーツを着装されていました。
でも、……泣いてる。

サラの日記285(そのことを、ルセット先生には悟られないように。)

銀菓神暦2016年1月16日

今日は多分、朝の1時間の授業のあと、ルセット先生は夕方まで戻らない。
ルセット先生の研究室に、昨日のノートを見に行きました。
ノートに書き込まれている文字の形を覚え込みました。
それから図書館へ。
文字の解読に繋がる何かが見付からないかと、資料を探しました。
だけど何も見付からない。
――うーん……。勘か何かで読めないかな……――
ふと そんなことを思い、資料探しを切り上げて、ルセット先生の研究室でノートとにらめっこしていました。

やっぱり読めないな……と思って、閉じたノートを胸に抱いた時、何か違和感を感じました。
――アグルムの聖石がノートに反応してる?――
でも、勘違いかも……と思って、今度はペンダントをはずしてノートの上に置いてみました。
ペンダントは脈打つように光を放っています。
――何これ……。どういうこと?――

恐る恐るペンダントに触れると、ペンダントから伝わって来るものがありました。
ノートに書かれているのは古代花綵(はなづな)アグルムの文字。
歴代の王と次期王位継承者だけに伝えられている。
純粋な古代花綵アグルムの文字であれば、アグルムの聖石の力で読み取ることができる。
だけど、このノートの文字には闇の銀菓神の術も掛けられている。
アグルムの聖石の力だけでは読み取れない。
つまりは2重ロックが掛けられているということ。

ペンダントを着けて、ノートを本棚へ戻しました。
ルセット先生が、何か危ないことに関わっているってことを確信しました。
ノートの文字を解読したい。
そのことを、ルセット先生には悟られないように。

サラの日記284(これ、なんだろう……。闇の怪物?)

銀菓神暦2016年1月15日

ルセット先生は、私に何かを見せないように守ってくれている?
でないと、あんな風に、夢の記憶の断片を消す術を使ったりしない。
ついでに何か違う術も掛けられたのかなぁ……。
不安な事や心配なことは、以前と変わらず私の中にある。
なのに、不思議なくらい気持ちが落ち着いています。
――全部、ルセット先生に任せよう――
そんな風に思えます。

ルセット先生がどこかへ出かけて行かれたあとの研究室で本を読んでいました。
今日はルセット先生の気配を感じられる場所の方が安心できる。
そろそろ期末試験の準備をしておかないと……。

何気なく研究室を見回していると、書棚の目新しい本に目が留まりました。
本……ではありませんでした。
本のような表紙の分厚いノート。
ぱらぱらめくってみると、何語だか分からない、見たことの無い文字で、何かが書き込まれていました。
でも、筆跡は確かにルセット先生のもの。
ノートには、文字だけではなく、挿絵のようなものも描かれていました。
――これ、なんだろう……。闇の怪物? ルセット先生って、銀菓処方箋以外の研究もしてるの?――

部屋の奥の鳥居からルセット先生が戻って来られる気配がしたので、ノートは元あった通りに戻しておきました。

今日のルセット先生からも、カリンさんっぽい波動の気配が うっすらと感じられます。

サラの日記283(昨夜はルセット先生に抱きしめられたまま眠りました。)

銀菓神暦2016年1月14日

昨夜はルセット先生に抱きしめられたまま眠りました。
眠っている間に色々なことが伝わって来たような感覚が残っているけれど、具体的なことは覚えていません。
ルセット先生の腕をすり抜けようとしたら、
<怖い夢を見せなかった?>
とルセット先生が意識体で話し掛けてこられました。
<うん、大丈夫。何か見たかもしれないけど、なんにも覚えてないから>
そう答えると、ルセット先生は私のおでこにキスをして、腕をゆるめてくださいました。
それから、私の頭の方から足の方へ向かって手のひらをかざされました。
残っていた もやもやした感覚が、すーっと消えていきました。

「ねぇ、ミシェル……」
「ん?」
「何か危ないことしてるの?」
「何もしてないよ。サラが心配するようなことは何もない」
ルセット先生はそう言うと、ベッドから出て身支度を始められました。

いつものように実家の工房に行って、
いつものように大学院に行って、
……いつものように、空白の時間にルセット先生は研究室に居ない。

サラの日記282(私は、……カリンさんと同じようなことをしている)

銀菓神暦2016年1月13日

ルセット先生との婚約が決まって、住まいを花綵(はなづな)アグルム城に移してからは、実家の工房と大学院に通う以外のプライベートな外出は ほとんどしていません。
特に禁止されているわけではないけれど、なんとなく出掛けにくい雰囲気です。
それに、私の中の半分はルセット先生の意識体。ルセット先生には私の思考や行動の全てを知られてしまう。
もちろん、理屈ではルセット先生もその反対の立場にあるのだから、私にはルセット先生の思考や行動の全てを知ることができはずなのだけど……、私には まだうまくルセット先生の意識体を読むことができません。ルセット先生の意識体は闇の部分が多過ぎる。
大好きだったんだけど、今も大好きなはずなんだけど、今は その裏返しの寂しさの方が大きい。
ルセット先生に知られてしまっても構わない。誰かとどこかへ出掛けたい。
誰かと……。
シュウちゃん。
会いたい。
シュウちゃんに会いたい。
もう、全部壊れても構わない。
ルセット先生と出会う前の、ただの菓子工房の娘だった頃の私に戻りたい。
公務や銀菓神使の仕事で、慣れない人たちと話をしたり一緒に過ごしたりすることは、私には やっぱり重過ぎる。
たくさんの人たちと話せば話すほど、たくさんの人たちと一緒に居れば居るほど、なぜか私は寂しくなる。
話せる人がシュウちゃんだけだった、あの頃の私に戻りたい。
シュウちゃんにさえ話すことができれば、私はそれで安心できたし満足だった。
今は、こんなにたくさんの人たちと話すことができるのに、シュウちゃんには話せない。
せめて、この西瀬忍(にしせしのべ)に想いを乗せて、シュウちゃんに届けばいいと願いながら息を吹き込む。

――これって……。この感覚って……。私は、……カリンさんと同じようなことをしている――

大丈夫。分かってる。
私はもう、花綵アグルムの王太子妃と同じに見られてる。
あれこれ考えることはあっても、そんな風に動いたりはしない。

でも……。

夕食のあと、屋上の鳥居を眺めながらぼんやりしていました。
この鳥居を抜けて、シュウちゃんに会いに行ってみたらどうなるのかな……って。

後ろから、ルセット先生の気配のする温もりに抱きしめられました。
その手が、私の胸のペンダントを そっと つかみました。
「行かないで、サラ。僕はどこにも行っていない。このアグルムの聖石(ひじりいし)に誓う」

――じゃあ、……ミシェルはどこに行っているの?――

サラの日記281(カリンさんが私たちのところへ来ることは受け入れられても、 ルセット先生がカリンさんのところへ行ってしまうことは考えたくない。)

銀菓神暦2016年1月12日

ゾエさんが銀菓神使の仮称号試験に合格したあと、ルセット先生の天戸(あまと)キャンパスでの仕事は少し少なくなったはずなのですが、これまで天戸に行っていた時間に別のところへ出掛けているような気がします。
どこに行っているのかは聞いていません。
でも……。
どこかから帰って来たルセット先生からは、微かに(かすかに)カリンさんの波動を感じます。
本当に微かなので、私の思い違いかもしれません。
思い違いかもしれないと思うのは、ルセット先生から感じるカリンさんのものによく似た波動からは、
カリンさんの波動には無いはずの邪の念が感じられるからです。

ルセット先生がどこかへ出掛けている時間、私はメランジェ研究室で過ごしています。
なるべく妙な事を考えないように、メランジェ研究室で本を読んだり、アロゼに関する研究をまとめたりしています。

カリンさんのことは とっくに受け入れているはずなのに、そうではない気持ちも出て来てしまう。
カリンさんが私たちのところへ来ることは受け入れられても、
ルセット先生がカリンさんのところへ行ってしまうことは考えたくない。
何も知りたくない。

今日も、空白の時間のあとのルセット先生からは、カリンさんのものによく似た波動が微かに感じられました。
私がそう思っていることに気付いているのか いないのか、
ルセット先生は ずっと研究室に居たような様子を演じられています。
いつものように穏やかな雰囲気のまま。
出会った頃は、その穏やかな雰囲気に ふんわりと包み込まれることに安心できていたけど、
今は、その穏やかな雰囲気の奥に何かが隠されているようで怖い。

≪公務では苦労させるかもしれない。でも、さっきサラが考えていたようなことでは絶対に苦労させない。懲りずに付いて来てくれる?≫
2日前にルセット先生が伝えてくれた その言葉だけが、今の私の支えです。

アロゼの休憩室28「今年最初の3連休も最終日となりました。」

冬休みが終わり、今年最初の3連休も最終日となりました。
明日から学校や仕事に行くのが嫌だなぁ~って思っている人もいるかもしれませんね。

小学生の頃、どうしても学校に行きたくない時、夜中にわざと布団から飛び出して寝るってことをやっていました。
もともと それほど身体が丈夫ではなかったというのもあったのかもしれませんが、
翌朝 本当に熱が出ているので、仮病ではなく、本当の風邪ひきで学校を休んでいました。
荒技なので人には勧められませんが、
本当に熱が出ているので、仮病だという罪悪感もなく、
当時の私は そうやって時々学校を休むことで心のバランスを保っていました。

娘を授かってからは、こういうことはできなくなりました。
自分の心身よりも、娘のことの方が優先です。
そうやって がむしゃらに毎日を過ごしているうちに、心も身体も強くなりました。
それど同時に、お姉さんが おばちゃん になっていく過程が分かってきました。
お姉さんが、生きていくための色んなアイテムを手に入れていくと おばちゃん になっていくんです。
そんな気がしている今日この頃です。

場面緘黙だった頃の連休明けの話を書こうとしたはずが、おばちゃん化についての話になってしまいました……。

サラの日記280(たまには王子らしい考え方するのね)

銀菓神暦2016年1月11日

ジャックさんは朝から眠そうでした。
ゾエさんのところに行けなかった代わりに、夜通し(よどおし)ゾエさんと意識体で交信していたそうです。

「夜通しって、何をそんなに話すの?」
「うーん。色々。嫌いな食べ物の話とか、嫌いな色の話とか、嫌いな匂いの話とか、嫌いな先生の話とか、嫌いな科目の話とか……」
「ん? なんで嫌いなことの話ばかりなの?」
「んー。ゾエちゃんは俺に好きなことは何かって聞いてくれるんだけどさ、好きなことって、そんな改まって聞かなくても分かるじゃん。分かんなくても困ることって あんま無いしさ。けどさ、嫌いなものは聞いとかないと、無理して合わせてもらってても分かんないじゃん」
「そっかぁ……。そう言えば私、ミシェルの嫌いなものってなんにも知らないな……」
「いいんじゃない? サラちゃん達は。まさか、兄貴とちょっとぐらい好みが違ったからって争いになったりしないだろ? 俺さぁ、異文化のお姫様相手じゃん。不安なんだよ。そういうこと、ちゃんと聞いとかないと。もちろんゾエちゃんに個人的関心があるから色々知りたいってのが1番なんだけどさ、やっぱ分かんないじゃん、プラクミーヌのことって」
「ふぅーん。たまには王子らしい考え方するのね」
「失礼だな!」
ジャックさんは両手で机をバン!と叩いて立ち上がりましたが、目をきょろっとさせて笑っていました。

「ジャックさーん!」
タツキちゃんが手を振って、にこにこしながら教室に入って来ました。
「こちらの姫は楽なんだ。全部態度で示してくれる」
ジャックさんはウインクしながら小さな声でそう言い残して、タツキちゃんと手を繋いで教室を出て行きました。

サラの日記279(セカンド・パートナーが居るのって大変ねぇ)

銀菓神暦2016年1月10日

研究室はお休み。
ジャックさんはタツキちゃんの銀菓神使仮称号試験の応援に出掛けました。
今日はゾエさんのことはいいのかな?
2人の些細なすれ違いが国同士の争いに繋がったりしない?
セカンド・パートナーが居るのって大変ねぇ、なんて他人事(ひとごと)のように思ってみたり。

今のところルセット先生にセカンド・パートナーが居ないのは平穏で幸せ。
でも、ルセット先生ってみんなに優しいから、もしかしたら いつか……。
ルセット先生が気付いていないだけで、カリンさんのような人が他にもたくさん居たりして……。
えーっ、もしそうだったら嫌だなぁ。

<居ないよ。こんなに問題だらけの人間に、わざわざ誰も寄って来ないよ>
突然ルセット先生のメッセージが聞こえてきました。
<えっ? 聞こえてたの?>
<うん。ばっちり聞こえてた。公務では苦労させるかもしれない。でも、さっきサラが考えていたようなことでは絶対に苦労させない。懲りずに付いて来てくれる?>
<……うん。ね、今どこに居るの?>
<ウィルの部屋だよ。ジャックとゾエの様子を色々聞いてるところだよ。サラもおいで。一緒に聞いておいて欲しいんだ>

サラの日記278(だって、文字には お菓子を作る時と同じ種類の個性が出ているから。)

銀菓神暦2016年1月9日

昨日書き上げた銀菓神式祝詞(のりと)の課題。
ちゃんと墨も乾いて、無事に提出完了。
名前を確認しなくても、書き上がった文字を見るだけで誰の作品だか分かる。
だって、文字には お菓子を作る時と同じ種類の個性が出ているから。

タツキちゃんは明日、銀菓神使の仮称号試験を受けるそうです。
冬休みの間もメランジェ先生のところに通って頑張っていたみたい。
「月行き」の時、1人でやって来たタツキちゃんをグラセさんが大歓迎してくれて、
タツキちゃんは「複雑な心境だった」って笑いながら面白おかしく話してくれました。
本当はグラセさんのところに立ち寄るつもりはなくて、
ささっと行って ささっと帰ろうと思っていたのに、
たまたま外で作業していたグラセさんに見付かっちゃったんだって。
「でも、そういうのも縁だと思うよ」
って言ったら、
「そうかなぁ」
って、タツキちゃん、満更(まんざら)でもない顔してた。

縁。
どんなに望んでも手繰り寄せることのできない縁もあれば、
思ってもみない時にやって来る縁もある。
どうしても嫌というのでなければ、
やって来た縁に向き合ってみるのもいいんじゃないかと思う。
巡り巡って、
どんなに望んでも手繰り寄せることのできなかったはずの縁にたどり着くかもしれない。

サラの日記277(お菓子の匂いもいいけど、たまには墨の香りもいいな……。)

銀菓神暦2016年1月8日

銀菓神式祝詞(のりと)の課題に悪戦苦闘です。
課題の文句を毛筆で書けばいいだけのことなのですが、
まず自分で墨(すみ)を擦(す)らなければなりません。
薄いのは駄目だし、濃過ぎるのも駄目。
提出期限は明日。
書初め気分。
今日は受講生で1つの部屋に集まって、長い時間墨を擦っていました。
でも、大変だけど、墨の香りが心地いい。
お菓子の匂いもいいけど、たまには墨の香りもいいな……。
お菓子の下ごしらえも楽しいけど、墨の下ごしらえも面白い。

そうそう、匂いと言えば、
しばらくの間、ルセット先生の研究室に立ち寄るのは嫌かもしれない。
ルセット先生の研究室には昨日の甘酒の匂いが充満中。
あの匂い、好きな人にはいい匂いなのかもしれないけど、私には……。
こればかりは、いくらルセット先生のことが大好きでも譲れない。
研究室で甘酒を炊くのはやめて欲しい。
思い出しただけでも頭が痛くなっちゃう。

サラの日記276(「だって! だって! 楽しみにしてたのにー!」)

銀菓神暦2016年1月7日

大学院の授業再開です。
でも、朝からタツキちゃんの様子がおかしいんです。
とっても ぷんぷん している感じ。

「何かあった?」
タツキちゃんの顔を そーっと覗き込みながら聞いてみると、タツキちゃんは、
「だって! だって! 楽しみにしてたのにー!」
と大きな声を出したあと、急に しゅんとして机に伏せてしまいました。
後ろに居たジャックさんがタツキちゃんの背中に手を当てると、タツキちゃんは、
「もう! 触らないでよ!」
とジャックさんの手を跳ね除け(はねのけ)ます。

「何があったの?」
私はジャックさんに尋ね(たずね)ました。
すると、ジャックさんが答えるよりも早く、タツキちゃんから答えが返って来ました。
「ジャックさんがほかの子と初詣に行っちゃったんだもん!」
――なるほど。そういうことか……――

だけど、お昼休みの植物館で、特設神社に仲良くお参りしている2人を目撃。
2人を遠目に見ながら
――よしよし……――
なんて思っていると、ルセット先生からメッセージが届きました。

<サラ? 甘酒が炊けたんだ。飲みにおいで>
甘酒は好きじゃないんだけど、ルセット先生に会いたいから飲みに行く!

サラの日記275(『私は幸せでいなければならない。全ては貴方の幸せのために』)

銀菓神暦2016年1月6日

夢を見ました。
カリンさんが西瀬忍(にしせしのべ)を作っている夢でした。
季節は春。
私が、ルセット先生の研究室の所属になった頃。
他人(ひと)に頼まれたものではなく、自分の笛を作っているようでした。
カリンさんはその笛に想いを込めているようでした。
『私は幸せでいなければならない。貴方のために』
カリンさんが想っている「貴方」とは、おそらくルセット先生のこと。
『私は幸せでいなければならない。貴方が安心して幸せでいられるために』
『私は幸せでいなければならない。貴方が私を気に掛けずにいられるように』

夏。
ルセット先生との婚約が決まった頃。
カリンさんが、できあがったばかりの笛を吹いています。
『私は幸せでいなければならない。もう言葉にすることは許されない大切な想いを、せめてこの笛の音に乗せて届けることができるように』
『私は幸せでいなければならない。この音色を、嫉妬や悲しみで汚すことなく、貴方のもとに届けることができるように』

秋。
ルセット先生が私の西瀬忍をカリンさんに依頼した頃。
カリンさんは、作りかけの西瀬忍に向かって笛を吹いています。
『私は幸せでいなければならない。貴方が、旧知の者として、いつでも私を使えるように』
『私は幸せでいなければならない。貴方が愛する全てのものを、私も愛せるように』

そして今。
カリンさんは、これまでカリンさんが込めた想いでいっぱいになった笛を吹いています。
『私は幸せでいなければならない。全ては貴方の幸せのために』

カリンさんの吹く西瀬忍は、ルセット先生への想いであふれています。
でも、その音色に、嫉妬や悲しみなどの汚れは感じられません。
ただただ透き通っていて、はかなくて、美しい。

『私は幸せでいなければならない。全ては貴方の幸せのために』

サラの日記274(父が小豆を甘く炊いていました。)

銀菓神暦2016年1月5日

数日振りに実家の菓子工房に行ってみたら、父が小豆を甘く炊いていました。
炊いても炊いてもすぐに売り切れるので、私が手伝いに行けない間、小豆を炊くのに手を取られて、時間のやりくりが大変だったそうです。

炊けた小豆は ぜんざい として、店舗で食べて行かれるお客様が多いようです。
実家の工房では、普段はこういうタイプのお菓子は作っていないのに、なぜか毎年この時期に出すとよく売れます。

母の話によると、
昔、隣りの樫野さんからいただいた小豆を工房で炊いていたら、
「いい匂いね」
と 通りすがりのお客様が寄ってくださるようになり、それが段々と広まって、いつの間にかこの時期の行事のようになったのだそうです。

年明けの、小豆を炊いている匂い。
物心ついた頃からそうだった、私の実家の匂い。

ルセット先生は、こういう方面のお菓子にはあまり詳しくないみたい。
だけど、父がまかないで出してくれた1杯を、おいしそうに食べてた。

サラの日記273(休んでばかりの1日でした。)

銀菓神暦2016年1月4日

大晦日からの4日間、仮眠程度にしか眠ることができなかったせいか、
銀菓神さまからの初めての命を終えた安堵からか、
身体中がだるくてだるくて仕方なくて、休んでばかりの1日でした。
でも、ルセット先生はいつもと変わらず私の実家の工房に行ってくださって、
いつもと変わらず公務や休み明けの授業の準備をされていました。
これがプロと研究生の違いなのかな? もっと体力を付けなくちゃ。

部屋で1人うとうとしていたら、心地良い笛の音が聞こえてきました。
カリンさんの吹く音が聞こえているのか、昨日の自分の音が頭に残っているだけなのか、
どちらとも分からないまま ぼんやり聞いていました。

「サラ? 大丈夫か?」
ルセット先生の声で目が覚めました。
「うん。ちょっと眠れたから大丈夫」
私がそう返事すると、ルセット先生は
「そうじゃない。良くない気配がするんだ」
と、部屋のあちこちを見回されました。

良くない気配どころか、心地良い笛の音で 心地良く眠っていたことを話そうかと思いましたが、
カリンさんのことに触れていいものかどうか分からなくて、そのまま黙っていました。